2005年11月11日(金曜日)初めてジョン・ケイジの曲に触れたのは、8年生(訳注:日本で言う中学2年生)、14歳のとき。そのころちょうどオーケストラ曲を書き始めたところで、僕の両親は、僕が自分の曲を誰かちゃんとした作曲家に見せるべきだと考えていたんだ。で、僕はマンハッタン音楽院の先生のところに連れていかれたんだけど、その先生は偶然、僕の家から1ブロックはなれたところに住んでいた人だった。僕は、自分がそのとき書いていた、自分の超最高傑作で、志高く「Nova(新星)」という題をつけた曲を持っていった。たぶん、自分では気がつかなかったけど、ちょっと怖気づいていたかも知れない(実際、自分の友だちや家族以外に自分の曲を見せるのは、これが始めてだったし)。先生は、ちらっと僕の曲を見て、かなりそっけない感じで、「この曲はまじめすぎだね。こういうのじゃなくて、クラリネットとボーカル(Voice)の曲を、小節線なしで書くべきだ」といったんだ。小節線なし!自分では、「Nova」はすごく冒険的な作品だと思っていたし、拍子だって7/8だった!でも、先生は続けて「君は、ジョン・ケイジの音楽を知っているかね?」と聞いてきた。僕は思い切って「その人は、まったく音のない曲を書いた人じゃないですか…?」と、自信がないのがありありと伝わる感じで答えてみた。「ジョン・ケイジはね、天才だよ、天才!」と先生は熱く訴えるように話し始めた。完全に4分33秒(訳注:ジョン・ケイジの代表作:音のない作品のタイトル)以上、先生は、ジョン・ケイジがいかに音楽の行く末、可能性をいろんな方法で変えていったか、もったいぶって話し続けた。その間、僕といえば、恥ずかしさで身が縮む思いをしながら、まだ(訳注:先生の話していることに)ちょっと疑いを持っていたんだ。
これは、僕が作曲の先生のところに再度行くことになったときに先立つ7年前の話。でも、この、奇妙で鮮やかな、時としてまとまりがなくてでたらめ、また往々にしてこっけいな思い出、つまり、ケイジの物語と楽譜が自分の鼻先に突きつけられた、ちょっと怖かった午後の思い出によって、大いに好奇心をそそられたのは事実なんだ。それと同時に、心の中ではいつも「こんなイカれたものに、ものすごく深い意味のある“なにか”があるとしたって、どうだっていうんだ?」って声があったのも本当だけど。でも、正直なところ、僕はそのころ対位法やフーガ、ジャズの和声、またはイエメンの女性民俗聖歌について探求することで手一杯で、静寂(原語:Silence)についてじっくり考える時間はなかった。もちろん、長年にわたる作曲セミナーや音楽についての真剣な会話の中で、だいたいはちょっと冗談めいた話の流れだったり、きちっとした答えのない質問に対しての回答の中で、いつだって折に触れ、ケイジの名前は出てきていた。
1992年、ケイジはニューヨークの病院に歩いていって、そのまま突然死んでしまった。この日のことはものすごく鮮明に覚えている。WNYC(訳注:ラジオ局)の「ニュー・サウンズ」という番組をずっと聴いていた。その番組では、ジョン・セイファー(訳注:番組ホスト)が一日中、ケイジの曲をかけ続けていた。それまでには、僕はもう十分、ケイジの初期の作品、たとえば、プリペアド・ピアノのため曲や、アリア、クラリネット・ソナタ、コンストラクションズといった作品を知っていたし、評価もしていた。その当時、いくつかの余分なカセットテープ(って覚えているよね?)を持っていたので、その番組を録音することにしたんだ。僕にとって、この放送はたくさんのケイジの曲や弦楽四重奏に触れる最初の体験だった。特に弦楽四重奏については、もうこれまで何度も何度も聴いていて、そのたびに、穏やかに移っていく音の響きと、独特の時間を感じさせない質感に、陶然とさせられた。それでも、まだ僕はケイジの後期の作品、純粋に喜劇的、または哲学的な、もしくは両方の領域に入ってしまった感じで、僕が‘音楽’とみなしていたものの境界線内にはたぶん含まれない作品には、なかなか入り込めなかった。これでも、僕自身、自分ではかなり心が広い方だと思っていた。
そして、運命的な日はやってきた。ミシガン大学のパーカッショニストに、彼女の卒業リサイタルで弾いてくれないかと頼まれたので、僕は引き受けた。彼女は、その返事を聞いたあと、非常に用心深く「全部ジョン・ケイジの作品なのよ」と付け加えて、僕に引き返すチャンスを残してくれたんだ。でも、幸いなことに僕はそうしなかった。僕らが演奏した曲のひとつが「フォー(Four)」で、この曲の演奏中は、音を演奏するため(もしくは、しないため)の基本的な時間軸を、常にストップウォッチで計らなければならないという、ケイジの後期の作品だった。この曲のリハーサルは、なんともからかわれているような感じだったけど、演奏すればするほど大いに心に触れる何かが確かめられた。コンサートの前に、ケイジの後期の音楽が僕にとって経験というよりも、観念みたいに思えるようになった。それでも、実際、その晩僕が学んだのは、ジョン・ケイジを演奏することを経験するということだけだった。その作品たちは、少なくとも作曲家が懸念した範囲で、まさに自我のない曲ばかりだった。僕たち、演奏家は、彼(訳注:ケイジ)が何を求めて、もしくは何を意図していたのか心配させられるようなことはなかった。それでも、ケイジの音楽を演奏することは、どの瞬間も、最大限に集中させることによって、意識の高揚を十分に促してくれた。コンサートの最中、僕ははっきりと感じ取れるほどの“転成(訳注:あるものが性質の違った何かになること、原語:becoming)”の感覚としか言いようのないものを感じた。そう、僕らは音楽で、音楽は僕らになった。この変質(原語:Transformation)は、真の意味での意識の変化で、彼、ケイジの音楽を十分に理解するスピリチュアルなプロセスをもたらした。これは、ケイジにとっても、音楽、本当にスピリチュアルな経験、を聴くことは、書くという行為を超える、それ以上のものじゃないか、と感じている。
0分0秒続く作品-もしくは639年続く作品―を聴いたり、演奏したりする、そういうのは人の知覚を変えることにつながっている。聴く側の基本的な変質を生み出すことは、もっともクリエイティブな芸術家たちが常にそうしたいと努力している、いちばん大事な目標のひとつじゃないかと思える。それは、「0分0秒(0’0”)」や「ASLAP」が‘すごい’作品であるという意味になるか?たぶん、そんなの関係ない。ケイジの音楽は、聴く側としての僕たちが、作品の中でなにがすごいのか、探すことに煩わされるべきかどうか、それについて考えることを促している。もし、アート作品が、僕らの世界に関する考え方や感じ方を変えるとしたら、それは、もうすでにものすごく大きな仕事を達成したことになる。
ケイジの音楽についてクリアではっきりした結論に至ることは、難しいことだとわかっている。それに、今では引退してしまった先生がそうしたように、ケイジを‘天才’として引き合いに出すこと、それが自分にしっくりこないことも認める。それでも、やっぱりというか、繰り返しになるけど、僕は、誰かに‘天才’の称号を与えて味わうようなことはしない。なぜなら、それは、彼らの作品に向かっていくというより、彼らの作品から自分を引き離すことになるから。ジョン・ケイジに関する僕の考えが、これからもどんどん変形・発展していくことを期待している。ケイジが確かめて、評価していただろう、絶え間ない流転と自発性の状態のように。
デレク・バーメル, 午前1時57分
コメント1
午後9時50分 エリック・L
ここで取り上げられているジョン・ケイジの後期の作品は、確かにちょっとしたもの(原語:something)だ。
僕は、シカゴに行ってから、たくさんのケイジの作品、特に「Freeman Etudes, Music for__」や他の作品を含めて、たくさん聴いてきている。それでも、まだしっかりつかめている感じはしないし、実際本当に好きか、嫌いか?というのも、つかめていない。でも、ひとつ確かなことは、ケイジの作品は、演奏家にも聞く側にも多大なものを思い切り要求する。これは僕にとって、他のどの作曲家の作品もなしえていないことだ。
最後に、ケイジの「フォー」のことを僕に教えてくれてありがとう。